公開資料室


昭和2年8月21日付、阪神毎朝新聞の記事

池田市宇保村は、村内に六斎講が2つある六斎念仏の盛んな村だったけれども、近年さびれていると報じています。

空也堂の文書「六斎念仏収納録」には、大正4年、池田の六斎講が突然、空也堂支配下にはいり、翌、大正5年には加茂を含め、近隣の六斎講がこぞって印鑑(六斎念仏興行許可証)を受けています。

それまでは、地元の寺院に奉仕するだけで、自由に門付けをしていたものが、このとき池田周辺の六斎念仏に、何らかの規制があったことが示唆されます。

京都では、明治5年、盂蘭盆会停止令※が出されて、六斎念仏も禁止されていましたが、明治16年、空也堂が京都府知事に願い出て六斎念仏禁止が解かれました。それで、翌17年には、京都周辺の45の六斎講が空也堂の印鑑を受けたことが「収納録」に記録されています。

京都と池田で4半世紀の時間差があるのは、当時の文化伝播速度というべきでしょうか。京都の盂蘭盆停止令の文言は、そのまま近代真宗説教の文言と見ることができます。大正のはじめごろ、真宗門徒の農家商家が六斎念仏お断りの行動に出たと考えられます。「門徒衆は御禁制なりひっつんつん」という俳句が加茂に残っています。

※(京都府史料)政治部民俗類 明治5年7月

従来の流弊七月十五日の前後を以て、盂蘭盆会と称し、精霊迎霊抔迚未ダ熟せざる果穀を以て仏に供し、腐敗し易き飲食を作て人に施し、或は送火と号して無用の火を流し、或は川施餓鬼・六斎念仏・歌念仏なと無謂事共を執行し、或は六道の迷を免る迚堂塔に一夜を明し、又は千日の功徳に充るとして之為に数里の歩を運ふ等、畢竟、悉く無稽の説付会の妄誕にして、徒らに光陰を費し、無益に天物を暴殄し、且追々文明に進歩する児童の惑も生し候事に付、自今一切令停止候事、

 

 


発願文(ほつがんもん)

ひっつんつんを打つ前に唱える発願文が伝えられています。

文言は浄土宗や真宗と同じですが、節は独特で、比較的単調ですが、技巧的でないぶん、かえって哀調があります。

他の地域の六斎念仏と節が似たところがあり、六斎念仏本来の発願文の節を伝承されていると考えられます。

発願文の唱えかたも六歳念仏の系統を解明する要素と考えられます。


小念仏(こねんぶつ)

いわゆる和讃を小念仏と呼びます。逆に、導師を讃引(さんびき)と呼びます。

加茂には、太鼓の打ち方(太鼓曲)7曲と小念仏8首が伝えられています。

現在は太鼓曲と小念仏の組み合わせを固定していますが、昔はその場に応じて使い分けたといいます。幼児の弔いには地蔵菩薩、病気平癒には薬師如来というように。

戦前は、夜通し門付(かどずけ)したようで、シャーマニズムのなごりを残しています。





ひっつんつん保存会は2000年(平成12年)、郷土芸能伝習会という名前で活動を始めました。村内3か所の先祖さん迎えのほかに、加茂ふれあい会館で発表会を催し、ひっつんつんを多くの人に見てもらいたいと、あちこちへ出張しました。

平成14年は最も多くひっつんつんを打ちました。上加茂の盆踊りでは小池百合子さん(現東京都知事)にも見てもらいました。西福寺さんでは数珠くりや、遊戯、地蔵盆の御接待を受けました。たのしい思い出です。

しかし、万人うけしない芸ということも解りました。それでも、どこで、だれが、何をよろこんでくださるか解りました。これは宝物です。ひっつんつんの壺をひろった思いです。